大山まるまるプロジェクト | 大山について
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大山について

大山ってこんなところ

大山地区は典型的な中山間地域で、丹波地域の中央部、丹波篠山市の北西部に位置し標高約200Mに開けた篠山盆地を宮田川が分断した丘陵地です。地区の中央に流れる大山川とその支流により河岸段丘地形が形成され独特の景観をつくっています。面積は21.18k㎡であり、うち80%を山林が占めており谷部に田畑が開かれ、2015年統計では人口1,488名が在住。

交通網は、地区中央を国道176号線が縦断し、恐竜化石が発見された川代渓谷を通る県道山南篠山線が横断しています。丹波篠山市中心部、JR、丹南篠山口ITC、丹波県民局がある丹波市柏原町までいずれも10分以内で移動でき、車による交通アクセスに恵まれた地域です。

「大山」という地名はずいぶん古くからあったようです。京都市の東寺にある古文書に、丹波国多紀郡河内郷の土地を取得し、東寺領の荘園として「大山荘」が記録されています。承和12年(845)とありますから1000年以上も前のことです。

荘園とは、都の大きな寺院などが開墾した田を集め、寺院私有地として国の税を免除された「墾田」をいいます。のちに国の役人の不当な税の取り立てや雑役をのがれるために、寺院に土地を寄進したものもありました。村の人々は役人の支配を受けない代わりに領主に税を払わなければなりませんでした。

大山の里は、栄枯盛衰を繰り返しながらも東寺領荘園として受け継がれてきたのでした。しかし、承久の乱(1221)のあと武蔵国(現在の埼玉県)中沢郷から、中沢佐衛門尉基政が地頭として大山荘に入り、次第に勢力を伸ばしてきました。そして、東寺の権益を侵害するようになったのです。東寺は幕府に要請し、「下地中分」といって、領地を地頭と分け合って年貢を確実に取れるようにしたのでした。

こうした支配者の年貢取りの争いを見ながら、土地の百姓たちは村の自治組織を固め、力をつけてきたのです。荘園の年貢取り立て役の不正をあばくとともに、百姓たちが責任を持って年貢を納入する約束をとりつけ、一反に1石の年貢を大幅に引き下げることに成功しました。これを「百姓請」といいます。文保2年(1318)のことでした。それから200年、地頭職と荘園代官の支配権争いがくり返され、応仁の乱(1467)によって全国が戦乱に巻き込まれていきました。

永正5年(1508)、大山荘内でも合戦が始まりました。この間の状況を荘内の百姓が東寺に報告しています。「わざわざ飛脚をもって申し上げます。そもそも今度、中沢日向守討死の儀につき、当荘のことは代官職を波多野殿が打ち取りに御成敗なさると申されます。そうなっては当谷のことは、一向、亡所となるでしょう…」こうして、ついに東寺荘園としての「大山荘」は終わりを告げたのでした。

旧大山村は、追入、大山宮、大山上、荒子新田、石住、高倉、大山新、一印谷、町ノ田、徳永、長安寺、北野新田、北野、大山下、明野、東河内の17大字(14集落)となっております。